※このページは津波被害の画像を掲載しています。ご注意ください。
触れられたくない見たくないという人も大勢いるかもしれない。
でも、無知や無関心であることが一番怖れるべきことだと思ったので、自分が見たこと感じたことを記録します。
秋保から移動して、石巻市と女川町まで足を延ばしました。
石巻と女川は震災関連のニュースでよく耳にしていた地名でした。

石巻市に入って、最初に目に飛び込んできたのは瓦礫の山でした。

木片と金属片で分別されています。

災害廃棄物処理業務(石巻ブロック)と書かれたプレハブが建っていました。
瓦礫処理のため、建設企業による共同企業体に業務を委託されているようです。
女川町方面へ進むと、巨大な缶詰が転がっていました。

水産加工会社「木の屋石巻水産」が魚油の貯蔵に使っていた鉄製のタンクで、鯨大和煮の缶詰が描かれています。
巨大津波が工場を全壊し、タンクは工場から約300m離れたこの県道の中央分離帯まで流されたようです。
※追記:被災者の心情に配慮し、2012年6月30日に撤去されました。
女川町へ行くとここに町があったのかと疑うほど、何もありませんでした。

ただあるのは、ここでも瓦礫の山。

陸地なのに、ボートがあがっています。海から流されそのままの状態です。

一部だけ残った建物。

真横に倒壊した建物。津波の威力を痛感します。

少し高台にある建物の3階部分まで津波が押し寄せたことがわかります。
再び、石巻市に戻りました。

津波被害を受けて運休している石巻線の踏切がありました。
復旧に向けて工事を進めているようでした。

ガードレールがあるので元々道だったことがわかりますが、
海と陸の境界線がわからなくなるほど陸地まで海が侵食しています。

海の近くの工場は壊滅的でした。


湊中学校。1階部分の窓ガラスがすべて割れてしまっています。

校舎の壁に津波が来たことがわかる土汚れがついています。
津波が到達した時間で時計は止まっているのでしょうか…。

門脇小学校。津波と火災の被害を受けたようです。

マンションの2階の窓に流されてきた電柱のような棒が突き刺さったままでした。


海水なのか雨水が溜まっているのか…道路は浸水しています。

想像を絶する光景でした。
「言葉を失うとはこのことか」と体現することになりました。

本当に「何もない」のです。
震災前の街並みは知らないけれど、何かが確かに存在していた跡だけがあるのです。

日和大橋からたくさんの車が積み重なっているのが見えました。

近くへ行って見ると廃車の山。


膨大な数の車が玩具のように積み重なって置かれています。



救急車も押しつぶされています。

雲雀野公園は、瓦礫置き場になっていました。



ほとんどが木の破片のようです。
私が行ったときは震災から既に1年以上が経っていて瓦礫も片付けられている状態。
今の状態になるまでもどれだけの人の苦労心労があったのか。そしてこれからも…。
街が復興しても人の心の傷は永遠に消えることはありません。
大きな被害を受けていない私は、まだまだ震災で苦しんでいる人がいることも普段は忘れていて、
この地に来なければこんなに実感することはなかったかもしれません。
当時、海が押し寄せてくる恐怖、暮らしていた街が消えていく絶望感、多くの命が奪われた悲しみ…
ここで、普通に家があって、お店があって、普通に人が生活して、仕事して、笑い合っていたはずなのに。
この地に立っているとそんなことを想像せずにはいられませんでした。

夜は仙台に戻り活気のある街を散策しましたが、なんだかショックを受けて口数も少なく…

満月発見。ちょうどこの日はスーパームーン。
通常よりも月が14%大きく30%明るく見えるんだそうです。
月に祈りを…


